2009/01/09 ●伊東マンショ(饅薯?)
寒いと何をするにもおっくうになるもの、声にださなくとも心で「よいしょ」と言ってしまう。「よいしょ」と言えば「伊東まんしょ」「伊東マンショ」は天正少年使節・・・正式には天正遣欧少年使節だそう。
確か4人だったような・・メンバーは伊東マンショの他はなんとかミゲルしか覚えていない。ちょいと調べたところ
の4人でした。マンショのほかはラテン系の名前。マンショはラテンor日本・・はて
とういうことで初研究は「マンショ」は何語か?
検索するとあっというまに出てきました。
Mancio なんのことないラテン系 あて字で満所というらしい。
イタリア語読みではマンチーニ。
あまりに簡単に解決したのでこの人のことを調べてみた。
詳しくはWikiの伊東マンショにあります。
1582年(天正10年)13歳(?)ローマに向け出発。長崎~マカオ~ゴア~リスボン~マドリードを経て~ローマに到着 この間3年
1585年(天正14年)帰途につく。この間の1587年に伴天連追放令
1590年(天正18年)帰国し秀吉に謁見
1601年(慶長6年)マカオに移りそのあと帰国したが1611年(慶長12年)追放され翌年に病死(43歳?)
いやーすごい大冒険波乱の人生です。使節の選考条件には容姿端麗があったそうだが当時の容姿端麗とはどんなもんだったんでしょう?栄養条件はよくないはずなので身長は150~160センチくらいだろうか?肖像を見る限り、かしこそうですね。ただ目はさみしそうな感じです。イタリアで描かれた絵だそうなのでさぞ心細かったでしょう。でも大歓迎を受けたそうだからきっと笑ったと思います。そういえば一般に笑った肖像画ってあまりないよね。笑ったらだいぶ雰囲気が変わると思います。現代の基準でもかなりいい男ではないでしょうか?
本当は帰国後、通称「イトマン」で大ブレイク!ラテンのノリで大モテで持ち帰った土産を元手に中国人と組んで高利貸しを始めたが、殿の姫君に手を出して追放された。。。これが「天正のイトマン事件」
となっては教科書には載らないか・・
http://blog.livedoor.jp/john96pierre/archives/50591444.html
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