太田姫稲荷神社本宮
太田姫一口(いもあらい)稲荷神社 本宮
https://jinja.tokyolovers.jp/tokyo/chiyoda/ootahimeinarijinja より
御由緒:839(承和6)年、公卿・小野篁は伯耆国の海上にて太田姫命と名乗る白髪の老翁から、疱瘡除けのため自身を祀るよう御神託を受けた。
篁は老翁の神像を彫って護持していたが、後に山城国一口(いもあらい)村に神社を創建して祝い奉ったという。
いもあらいとは「ゐも」(潰瘍の膿・血、尿の障害)を洗うの意であり、転じて穢れや災いも洗い清めるとされたこの神社は「えもあらい稲荷」と称され、人々の信仰を集めていた。
時は移り室町時代、関東一帯に疱瘡(天然痘)が流行し、太田道灌の姫君も罹患する。
道灌は一口稲荷の霊験を聞き及び、ただちに山城国に使者を派遣し平癒を祈願したところ、姫君の病は全快したという。
以来、道灌は江戸城内本丸に一口稲荷を勧請し姫君とともに篤く崇敬した。
1457(長禄元)年のある時この神が白狐を顕し「我この城の鬼門を守るべし」と託宣されたため、鬼門に遷座し太田姫稲荷大明神と奉唱するようになった。
徳川家康が江戸入りすると、現在の錦町一丁目に遷し、さらに1606(慶長11)年には江戸城増築に伴って、現在の聖橋の袂に遷座した。
以後、その修理造営は徳川家が行なったといわれる。
明治維新の後、1872(明治5)年には村社に列し、社号を太田姫稲荷神社と改称、錦町一丁目・小川町二丁目の一部・駿河台全域の氏神とされた。
1923(大正12)年の関東大震災で類焼するが、1928(昭和3)年には東北東に向いていた社殿を南面させて再建される。
1931(昭和6)年に総武線開通工事の為に社地が接収され、現在地に社殿をそのままの形で遷した。
なお、現社地は当時の清水建設社長が自邸の敷地を提供している。
2011(平成23)年に起きた東日本大震災では本殿に傾きが生じ、社務所にも被害を受け、2013(平成25)年に大規模な修復と社務所の新築工事が行われている。